2017年8月1日火曜日

「民主主義」というマジックワードの超克

戦前における「国体護持」と同様に、戦後は「民主主義」がマジックワードとして流通している。今風に言えばバズワードと言ってもいい。政治的に誰かを非難する時には右も左も「民主主義の破壊だ!」「民主主義を根底から覆す…」云々。しかし、これらの言葉は没論理である。正直に言えば「吠え声」と変わらない。なぜなら「民主主義」という言葉の定義が全く共有されていないので、「民主主義に照らして、XXXXだ!」と主張しても、論理(ロジック)が意味をなさない。


見たところ、職業的な政治家はプロフェッショナルらしく、このことをちゃんと自覚している。選挙制度に基づく政治の本質は、被統治者である国民の政策への関心が下がるほど、カタルシスを目的としたステージショウ、はっきり言えば「見世物」であり、見世物である以上、論理よりも印象を操作するほうが、ずっと効率的に選挙権をもつ国民に訴えるだろう。少なくとも小泉旋風、劇場型政治といわれてからこっちは、職業的な政治家はそれを自覚的に行っているだろう。そう思えば、この「戦後民主主義」体制下の政治家も「まともな国家運営をしながら人気取りもする」という点でなかなか大変である。ついつい同情してしまうこともある。

民主主義とは何か?という問いそれ自体は非常に重要ではある。しかしその重要性はあるべき政治体制の模索のためという本来的なものとして、多くの人に意識されているわけではない。そうではなくて、単なる前提なしの「正義」の源泉として、平たく言えば正当化のための錦の御旗として利用されるために問われることがほとんどである。やや空しいが仕方がない。日本を含む先進国においては、「隣人愛(博愛)」は知らないが、「自由と平等」はかなりの程度達成してしまっており、また、「権力vs市民社会」というような構図は意味を失っているため、「民主主義」を問うことの意味はその中に住む国民にとってほぼ無意味である。

大雑把に構図化してみると、元々キリスト教的な進歩史観、終末思想、つまり「唯一の神が何らかの目的をもってこの世を作り、いずれその目的は達成され、歴史は終わる」という観念を持たない我々日本人は、様々な大陸の思想に影響を受けながらも、ある種独自の価値観のなかで江戸時代まで生きてきた。それは「大目標を持たない」という点で恐るべき停滞の時代だったかもしれないが、ともかくも西洋的(=キリスト教的)なものとは異質のものとして繁栄してきた。しかし、幕末に西洋文明と対峙することにより、己の無力さを自覚するとともに、西洋的価値観を「正しいもの」として取り込んでしまった。平たく言えば、西洋にシビれてしまった。さらに新興の西洋化国家の帰結として大東亜・太平洋戦争に突入し、壊滅的な敗戦を経験した。それ以降、日本の諸悪の根源は「民主化=西洋化が不足していること」と認識されるようになった。丸山真男的な「(欧米は進んでいるのに)日本は遅れている」という考え方である。

だが、「民主化=欧米化」が無条件に礼賛されるべきという発想はソヴィエト連邦の崩壊以降、加速度的に意味を失っている。そのことは別段インテリ層でなくとも「素朴な庶民」でさえ理解している。表現がうまくできないだけである。なぜならば「自由・平等・博愛」の極点、つまり行き着く先のひとつが共産主義であることは誰にでも理解できるからである。資本主義vs共産主義というのは、決して民主主義vs全体主義ではなく、(自由を強調した)民主主義vs(平等を強調した)民主主義ということだったのだ。

このあたりから「資本主義の勝利」というような「祭りの季節」が過ぎると、もはや民主主義それ自体の意味を問うことがなくなっていく。そしてそのことは不安を生み出す。それはこういうことである。「平等を指向すると社会主義・共産主義に行き着くが、それは歴史によって否定された。しかし、残った自由を志向する資本主義的自由主義は多くの格差を生み出し、我々も貧乏のままである。それでよいのだろうか?」と。

少なくとももはや「民主化(=西欧化)が不足している」という議論はゾンビである。ただ、マスメディアを中心とした無意味かつ有害な「お作法」でしかない。大切なことは「民主化が足りない!」とか「民主主義の危機だ!」という戯言に接したときに「具体的にどういうこと?」と問うことである。非常に地味ではあるが、これをすることでマジックワードは崩壊する。AIだIoTだと言われたときに、具体的に何ができるようになるの?と聞き返せばたいていの営業やコンサルは「あわわわわ」となるのと同じことである。その結果、正しいことや向かうべき未来がますます見えなくなるだろう。そしてますます不安になるだろう。するとおそらく気が付くだろう。我々は「退屈」しているだけなのだと。


その「退屈」の名はニヒリズムという。すべてはその自覚から始めるしかないと私は考える。

0 件のコメント:

コメントを投稿