2017年4月25日火曜日

カバン

カバンといっても政治の話ではない。所謂「鞄」の話である。といっておしゃれでもパトロジックな話でもないのでご安心を。

通勤電車で妻に「カバン」を大事にしていないといわれた。今使っているのは吉田カバン(Porter)のカンバス地トートなのだが、確かに平気で床に置くし、一度修理にも出したが、仕事道具を詰め込むので金具周りが痛んでいる。そもそもこの若干カジュアルなカバンを購入したのは、Tumi製のビジネスバッグがビジネスカジュアルにあまり合わないということだったのだが、そのTumi製ビジネスバグの金具が金属疲労で壊れてから、ついつい修理を先延ばしにしてトートを使い続けている。だから今はスーツにトートというよくわからないスタイルで通勤したり、客先にいったりである。


吉田カバンのトートはたしか20,000円弱、Tumiのビジネスバッグは50,000円位だっただろうか。妻は言う「いいカバンを持ったらワクワクとかしないの?」「特にしない」「じゃ、なんでもいいじゃない」このあたりで私が乗り換える新宿駅についた。乗り換えた山手線の車中で、なるほど「ずいぶんカバンに対する位置づけが違う」と考えた。

一般論としては女性にとってカバンとは非常に重要だろう。どんなカバンであれ、何も手に持っていない女性の姿はどこか落ち着かない。モデルだろうとその辺を歩いているオバちゃんだろうとやはり「カバン」を持ってこそサマになる。その意味で、カバンは服と変わらない重要度を持ったアイテムなのだろう。だからこそ買い物などに行くとこちらが呆れる位カバン選びに熱中できるのだろう。むしろカバンに合わせた「服選び」という買い物の仕方もあるくらいだ。

翻って男性である私にとってのカバンとは道具以外の何者でもない。頑丈で使いやすいことが第一義である。ある程度よい物を持つのは端的に言って「馬鹿にされないため」であり、おしゃれという要素はほとんどない。たまに成金風のオッサンが飲食店のカウンターで後生大事になにやら高そうなカバンを隣のイスに混んできても置いていたりすることを見るが、軽蔑とともに叩き落してやろうかと考えたりもする。道具への執着が周囲への気遣いよりも優先する男性は私には理解できない。

さて、「いいカバンを持ったらワクワクする」というのはどういうことなのだろう。このあたりの心の働きはいまひとつわからないのだが、「自己肯定感」ということなのだろうと想像する。大げさに言えば「素敵なカバンを持った自分が素敵」ということだ。その心の働きは否定しないし重要なことだと思うのだが、よい物を持って「自己肯定感」を得るという心の働きが私にはあまりない。どちらかというと「これを持つぐらいには稼げていますよ」という多少の自己顕示欲の満足ぐらいである。

「男は一番身近な自分の妻を通じていい加減に女を理解した気になっている」とどこかで読んだが、それも仕方がない。妻ほど身近で違う環境で育った女性はいないのだから。というわけで勝手なことを書くことをご容赦いただきたい。

ナルシシズムは必要な感情であり、特に女性にとっては「死活的」に重要項目だと感じる。特に見た目の美しさへのこだわりや流行への感度の高さを厳しく相互チェックしながら生きている女性にとっては「ルックスや存在感がイケてる」ということは心の支えになるのだろう。それは美しさやセンスのよさがどれほど生きるうえで有効な武器であるかを肌で感じているからなのだろうと想像する。

男性にとってはどうなのだろう。「ルックスや存在感」をとりあえず分割して「ルックス」に限って考えてみる。人によって著しく異なるだろうが、平均から平均以下ぐらいの容姿の男性は思春期を迎えるころから「ルックス」については生得的なものを超えることがほぼ不可能ということを理解する。従ってこの領域での勝負から下りることが合理的である。女性はフラットな関係のなかの相互チェックを重んじているように見えるが、男性はなんでも「勝負」なので勝てない領域では努力しなくなる傾向がある気がする。

その結果、スーツを着ていればそこそこ見られるが、それ以外は話にならないお父さんが量産される。お父さんは自分のルックスに何の価値も感じていないので非常に無頓着になる。「君子身辺を飾らず」なんて故事を言い訳にしつつ、そこに意識が向かない。妻に指摘されてとりあえず近寄りがたくならないように「清潔感」にだけ気をつける。勿論私も例外ではない。私などは恥を忍んで言えば、ひねくれたナルシシズムを鎮めるために意図的に頓着しないようにしてしまう。

最近ちょっと思うのだ。「女ウケしなけりゃそのカネ、死に金」的な男性向けライフスタイル誌のような価値観にはまったく共感できないけれど、思春期から青春時代に勝負から下りてしまっているので、ルックスはカバンも含めて多くの男性にとって未開拓(あるいは全く開拓が足りていない)の領域なのではあるまいか。
趣味の道具レベルで「身近な洋服やカバン」の良し悪しを見分けられるぐらいになったほうが、少し人生が楽しくなるのではななかろうかと。

我と我が身の容姿の悪さを嘆いていても仕方がない。それよりも、何とか身近なものに楽しさを見出して、少しは見られるように身辺を飾ってみてもよいのではないかと。足が短いなら短足なりに、腹が出てきたならば出腹なりに、顔が悪いなら不細工なりにとりあえず楽しめる範囲で自分の格好を楽しめるようになればよいのではなかろうか。


往々にして休日のオッさんたちは不細工でダサい。少し成金のオッさんは高いものを着ているが、だいたい似たり寄ったりの格好で苦笑いしてしまう。(腕まくりのジャケット、微妙な色味のカットソー、七分丈パンツに、妙なローファー風の革靴というのを近頃はよく見る。何かの制服なのだろうか。)自分なりのスタイル(姿勢/哲学)をちょっと追求することを楽しめれば、自分も楽しいし、妻の機嫌はよくなるし、職場でも明るく振舞える・・・かもしれない。

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