2017年3月21日火曜日

FROZEN

フジテレビでディスニー映画の『アナと雪の女王』を放映した。2013年生まれの3歳になるうちの娘が大好きなので、BlueRayで購入して何度となく観た。サウンドトラックも購入して、車の中のヘヴィローテーションはこの1年ぐらいずっと『アナ雪』だ。ディズニー映画には全く興味がなかったから、ちゃんと観たのはこれが初めてだ。興行収入も歴代一位で、ご覧になった人も多いだろうから、以下、ネタバレのレビューを書いてみる。因みに映画マニアでもなんでもないので、素人の戯言と思っていただいて間違いない。それでもよろしければ少しお付き合いいただきたい。



内田樹(全共闘の生き残り左翼だが、文章は時々見るべきものがある)がどこかで「優れた映画には大抵、優れた心理学的な要素がある」と書いていたが、この映画にもそれはとても多い。あらすじは先日地上波で放送されたのでご存知の方が多いだろうし、こちらをご確認いただくとして話を先に進めたい。

アナとエルサというダブルヒロインの内、姉のエルサは生まれつき「雪や氷を作り出す」力を持っている。子供の頃は生まれ育った城の居室を雪だらけにする程度だったが、成人してからは非常に強力だ。何しろ国ごと夏を冬に変えてしまうほどのものである。X-MENのストームなど問題にならない力。ただ物語の終盤まで本人はこの力をうまく使えない。本人の感情の昂りに応じて力が溢れ、氷の壁を思わず作ってしまったり、真夏に雪を降らせてしまったり、挙句に港を凍結させてしまったりと暴走する。

エルサの心象風景がそのまま気候に反映され、その結果周囲に被害を与え、その結果本人が苦しみ、さらにその苦しみが冬の嵐になり被害が拡大という悪循環。少年期(少女期)から青年期へ移行する時のあの自意識の嵐とも取れるし、或いは特殊な才能(例えば美貌のような。あまりに美しい少女が普通にみんなと仲良くしたいのに周りが特別扱いして孤立するなどの)を持て余しているかのようなこととも取れるだろう。

様々に解釈できるが、私が気になったのはエルサの能力を親と本人がどう位置づけているかである。物語の最初で、事故とはいえ妹のアナをその能力のために傷つけてしまったエルサは、深く傷ついてしまう。また、両親である国王・王妃は「能力が操れるようになるまで」という条件付とは言え、エルサを妹から、そして世間から隔離して育ててしまう。国王はその能力を放つ両手に手袋をつけておくようエルサへ言い「落ち着くように、見せないように」という合言葉をつくって、その力を禁忌とする。英語版では「Don't feel it, Don't show it」となっており、より直接的に遮断というニュアンスになっている。

この時点でエルサは間違いなく自分の力を「忌むべきもの」として位置づけてしまっている。子供の特別な能力(才能)が理解できず、また危険だと判断した親がやってしまうことだ。例えば、芸術や芸能に特別な才能があるが「絵描きになりたい!ミュージシャンになりたい!」などと言い出されると困るので(親としてはそれが困難な道だと知っているので)、それを「下らない」などと決め付けて方向修正を図ったりする。それが例え一流になり得る才能だとしても、親が理解できなければ早々に芽が摘まれてしまうことも多いだろう。

物語の中盤、国中を凍らせてしまい、山に篭ってしまった自分を迎えに来た妹のアナとのやり取りでエルサはこんなことを言う。「私にできることはなにもない!」
これは意訳であって本来の英語版は「I can't controll the curse!」である。直訳すれば「この呪いはどうしようもないの!」であろうか。彼女にとって、雪や氷を操る力は才能ではなく「呪い」と位置づけられている。

そして「真実の愛」が「凍りついた心を溶かす」というモチーフは、物語のクライマックスで凍りついたアナを再生するという形で具現化しているように見えながら、実際にはエルサが自分自身を許し、呪いが呪いでなくなるために、誰か(ここでは妹のアナ)の無償の愛が必要にだったということに具現化して物語は幕を下ろす。

父親として、私などはここで背筋が寒くなる。本人の可能性は事後的にしか確かめられないとしても、子供の特別な「才能」、否、特別ではなくとも「得意な事」の芽を理解できないあまりに、それを「忌むべき呪い」としてしまうことはないだろうか、と。

我と我が身を振り返ってみると昔から何でも屋で勉強でも運動でも何でも一通りこなせるのだが、飛びぬけてこれが得意ということはなかった。今でも営業なのかエンジニアなのか、コンサルタントなのかわからないコウモリなので、「器用貧乏さ」が才能といえば才能なのだろう。絵も書くし、楽器も弾くが、全くやったことがない人よりはマシというレベルでしかない。私には親が理解不能なレベルの才能はなかったととりあえず結論づけても大丈夫だろう。


しかし、それは私の両親が見出せなかった能力が私にはなかったという証明にもならない。そして、今は私自身が人の親である。自分のことはさて置き、自分の子供の可能性は伸ばしたい、少なくとも、芽を摘まないようにしたいというのは人情だろう。今のところ、歌と音楽が大好きなのと塗り絵が得意ぐらいしか、才能の芽のカケラは見つからないけれど、無償の愛(のハードルは高いのだろうか?)を提供しつつ、少なくとも「いらぬ呪い」をかけたくはないと地上波初放送を観ながら考えた。

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