2017年3月24日金曜日

経営コンサルティングとITコンサルティングの狭間(自己紹介:仕事編)

「IT系何でも屋」が現状の実質的な職務ですが、自己認識としては「経営系ITコンサルタント」です。「系」ってなんだよ?とわりとよく訊かれるので、もっとよい言い方がないものかと考えますが、なかなか良い呼称が見つかりません。ともかく「経営系ITコンサルタント」という造語を定義しながら、「経営とIT」の整理をしておきます。



経営コンサルタントは業務遂行に特別な資格が必要ないこともあって、なかなか定義が難しいものです。一般的には「経営理論」「財務会計」「業務運用」「組織管理」などの理論に精通し、特定領域の実務経験やコンサルティング業務経験に基づいて、経営者・経営層に対して根拠のある的確なアドバイスや経営計画作成の支援を行う人というところでしょうか。勿論、得手不得手やそれぞれの専門性はあっても、まずはこのあたりの専門家であることが経営コンサルタントを名乗るための資格でしょう。

次にITコンサルタントですが、これも定義が非常に難しいものです。ベテランのシステムエンジニアやプロジェクト・マネジャをITコンサルタントと呼んだり、ERPに代表されるパッケージシステムの導入の専門家をそう呼んだりします。とはいえ、その経験と知識に基づき、IT製品・サービスの導入と活用によって、経営上の問題を解決に導く専門家というのが、その定義でよいでしょう。

さて、「経営とIT」はほぼ不可分の領域ですが、現実には経営や実務に強い経営コンサルタントはITに精通しているケースは少なく、ITコンサルタントは経営や実務について疎いというのが、割とよくある話です。経営コンサルの立場で言えば、IT屋は経営や実務を知らず、理想的かつ教科書的な業務を想定してシステムを導入したがる連中だという認識ですし、ITコンサルタントからすると「そんな課題はITで一発解決するのに、経営コンサルは回り道ばかりする」というのが得てしてその認識だったりします。

経営実務とIT双方に精通するのは、実際かなり無理があります。どちらも広大かつ複雑な海のような領域なので、たとえて言うと「太平洋」と「大西洋」双方を地理学・海洋学・生物学・気象学・航海・船舶などの観点で、少なくともすべてを広範囲に知っており、かついずれかの分野で専門性を持っているという状態だからです。これは一人の人間にはいくらなんでも無理です。経営とITに精通するというのは大げさに言えばそういうことです。

その問題を解決するため大手コンサルティングファームならば、それぞれの領域の専門家を束ねたプロジェクトチームで案件にあたります。その結果、ただでさえ単価が高いコンサルティングフィーは非常に高額なものとなり、中小企業ではなかなか手が出ないものになっています。(2000万~数億のオーダー)

本来、改善の余地が多く、経営にせよITにせよコンサルティングが有用なのは中小企業のはずですが、大手ファームはなかなか利用できません。従って、中小企業が利用するのはフリーや小規模なコンサル会社というケースがほとんどでしょう。そうすると、それぞれのコンサルタントは経営実務には詳しくてもITが弱い、あるいはITは強いが経営実務は苦手ということになりがちです。

そこに私のような「経営系ITコンサル」の役割があると考えています。基本的なベースとして製造業・流通業を中心に業務コンサルティングを行いながら、「要求定義」や「ビジネスフロー」作成を行います。それが結果的に経営上の問題点を解決するためのITからのアプローチとなり、後工程を担当するITコンサルタントやシステムエンジニアへの橋渡し作業となるわけです。私のような「コウモリ」は意外と少ないのですが、パソコンやオフィス機器導入相談や、無料ツール活用というようなちょっとした相談から、ERP導入やSCM革新相談までその道の専門家ほどではないにせよ、経営上の問題点を勘案しながらお請けできるので、案外重宝な存在のようです。


もしも、フリーや小規模なコンサル会社の利用をご検討ならば、「経営系ITコンサル」あるいは「IT系なんでも屋」のような観点を足して、コーディネータに「何でも屋もチームに加えなくていいの?」といってみてください。(なんだか宣伝みたいですが・・・)

2017年3月21日火曜日

FROZEN

フジテレビでディスニー映画の『アナと雪の女王』を放映した。2013年生まれの3歳になるうちの娘が大好きなので、BlueRayで購入して何度となく観た。サウンドトラックも購入して、車の中のヘヴィローテーションはこの1年ぐらいずっと『アナ雪』だ。ディズニー映画には全く興味がなかったから、ちゃんと観たのはこれが初めてだ。興行収入も歴代一位で、ご覧になった人も多いだろうから、以下、ネタバレのレビューを書いてみる。因みに映画マニアでもなんでもないので、素人の戯言と思っていただいて間違いない。それでもよろしければ少しお付き合いいただきたい。



内田樹(全共闘の生き残り左翼だが、文章は時々見るべきものがある)がどこかで「優れた映画には大抵、優れた心理学的な要素がある」と書いていたが、この映画にもそれはとても多い。あらすじは先日地上波で放送されたのでご存知の方が多いだろうし、こちらをご確認いただくとして話を先に進めたい。

アナとエルサというダブルヒロインの内、姉のエルサは生まれつき「雪や氷を作り出す」力を持っている。子供の頃は生まれ育った城の居室を雪だらけにする程度だったが、成人してからは非常に強力だ。何しろ国ごと夏を冬に変えてしまうほどのものである。X-MENのストームなど問題にならない力。ただ物語の終盤まで本人はこの力をうまく使えない。本人の感情の昂りに応じて力が溢れ、氷の壁を思わず作ってしまったり、真夏に雪を降らせてしまったり、挙句に港を凍結させてしまったりと暴走する。

エルサの心象風景がそのまま気候に反映され、その結果周囲に被害を与え、その結果本人が苦しみ、さらにその苦しみが冬の嵐になり被害が拡大という悪循環。少年期(少女期)から青年期へ移行する時のあの自意識の嵐とも取れるし、或いは特殊な才能(例えば美貌のような。あまりに美しい少女が普通にみんなと仲良くしたいのに周りが特別扱いして孤立するなどの)を持て余しているかのようなこととも取れるだろう。

様々に解釈できるが、私が気になったのはエルサの能力を親と本人がどう位置づけているかである。物語の最初で、事故とはいえ妹のアナをその能力のために傷つけてしまったエルサは、深く傷ついてしまう。また、両親である国王・王妃は「能力が操れるようになるまで」という条件付とは言え、エルサを妹から、そして世間から隔離して育ててしまう。国王はその能力を放つ両手に手袋をつけておくようエルサへ言い「落ち着くように、見せないように」という合言葉をつくって、その力を禁忌とする。英語版では「Don't feel it, Don't show it」となっており、より直接的に遮断というニュアンスになっている。

この時点でエルサは間違いなく自分の力を「忌むべきもの」として位置づけてしまっている。子供の特別な能力(才能)が理解できず、また危険だと判断した親がやってしまうことだ。例えば、芸術や芸能に特別な才能があるが「絵描きになりたい!ミュージシャンになりたい!」などと言い出されると困るので(親としてはそれが困難な道だと知っているので)、それを「下らない」などと決め付けて方向修正を図ったりする。それが例え一流になり得る才能だとしても、親が理解できなければ早々に芽が摘まれてしまうことも多いだろう。

物語の中盤、国中を凍らせてしまい、山に篭ってしまった自分を迎えに来た妹のアナとのやり取りでエルサはこんなことを言う。「私にできることはなにもない!」
これは意訳であって本来の英語版は「I can't controll the curse!」である。直訳すれば「この呪いはどうしようもないの!」であろうか。彼女にとって、雪や氷を操る力は才能ではなく「呪い」と位置づけられている。

そして「真実の愛」が「凍りついた心を溶かす」というモチーフは、物語のクライマックスで凍りついたアナを再生するという形で具現化しているように見えながら、実際にはエルサが自分自身を許し、呪いが呪いでなくなるために、誰か(ここでは妹のアナ)の無償の愛が必要にだったということに具現化して物語は幕を下ろす。

父親として、私などはここで背筋が寒くなる。本人の可能性は事後的にしか確かめられないとしても、子供の特別な「才能」、否、特別ではなくとも「得意な事」の芽を理解できないあまりに、それを「忌むべき呪い」としてしまうことはないだろうか、と。

我と我が身を振り返ってみると昔から何でも屋で勉強でも運動でも何でも一通りこなせるのだが、飛びぬけてこれが得意ということはなかった。今でも営業なのかエンジニアなのか、コンサルタントなのかわからないコウモリなので、「器用貧乏さ」が才能といえば才能なのだろう。絵も書くし、楽器も弾くが、全くやったことがない人よりはマシというレベルでしかない。私には親が理解不能なレベルの才能はなかったととりあえず結論づけても大丈夫だろう。


しかし、それは私の両親が見出せなかった能力が私にはなかったという証明にもならない。そして、今は私自身が人の親である。自分のことはさて置き、自分の子供の可能性は伸ばしたい、少なくとも、芽を摘まないようにしたいというのは人情だろう。今のところ、歌と音楽が大好きなのと塗り絵が得意ぐらいしか、才能の芽のカケラは見つからないけれど、無償の愛(のハードルは高いのだろうか?)を提供しつつ、少なくとも「いらぬ呪い」をかけたくはないと地上波初放送を観ながら考えた。

2017年3月13日月曜日

教育勅語と菊の御紋

教育勅語についての報道や言及が例の森友学園騒動や防衛相の発言などから散見されるようになった。戦前は不磨の大典の憲法に次ぐものとして、戦後は一転して悪魔の標語のような扱いを受けている「教育勅語」だが、とりあえず読んでみないことには話にならない。読んでないまま批判している人も多いであろう。以下全文である。

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朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽
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実はこれだけである。明治帝が臣民(≒国民)に対して徳目を説くという形式である。解釈についてはかなり色々あるらしく現代語訳もバラバラだが、ともかく具体的な徳目についてはおよそ解釈が一致しているそうである。その部分だけの現代語訳は以下の通り。

「父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以て交り、へりくだって気随、気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。」

内容としては極めて常識的な徳目だろう。「君主が臣民に説いた」という形式については違和感が残る人がおおいだろうが、現代でもおよそこの程度の徳目が、いわゆる「道徳」として説かれている。「万一危急の大事」の部分も形を変えているが、まあ生きている。戦時を想定しているものだろうが、東日本大震災のような緊急事態の際にも、多くの人が「勇気を振る」って故郷や社会のためにつくしたのは記憶に新しい。

現代の目でみると、内容に過不足(何を過不足とするかは人によって見方は違うだろうが)があり、道徳の基準とするには物足りない部分が多いが、明治期のものとしては立派な内容である。むしろ問題は内容ではなくて、「形式」と「運用」についてではあるまいか。


毎度のことではあるが山本七平の議論を思い出す。日本軍の兵器についての話である。
帝国陸軍の主力火器は三八式歩兵銃という小銃である。三八式に限らず、日本の兵器には「菊の御紋」が入っている(すべてではない)。これでどうなるかというと、メーカ「天皇」、ユーザが「二等兵」という事態を招来する。山本七平の表現を借りれば「これは欠陥兵器じゃないすか」ということは「欠陥現人神じゃないすか」というのと同義になってりまう。何しろ「兵器は神聖である」「砲即軍旗・砲側即墓場」というような世界だから、ユーザである二等兵はメーカーの天皇に到底クレームを言うことはできない。

すると何がおこるか。ユーザからのフィードバックがメーカに届かないということになる。実際にはメーカは天皇ではなく、現人神でもなく、軍需産業のメーカなわけなのだが、菊の御紋のおかげで現場の否定的意見が届くことはない。するとメーカは効果的な改善ができなくなる。これがどれほど「ものづくり」にとって致命的なことか、製造業に勤める方なら説明不要であろうし、そうでなくとも容易に想像できるだろう。「クレームは宝物」「クレームはラブレター」というのはこういう意味においてである。

三八式というのは明治三十八年式という意味である。明治38年は西暦なら1905年である。1940年代の戦争の主力兵器が35年前の兵器である(九九式という新式小銃もあったが到底間に合っていない)。多少の改良はなされたが、終戦まで主力であった。一方、干戈を交えた米国は1936年に半自動小銃のM1ガーランドが配備されている。それほど基本設計の古い兵器を使いながら、ユーザの声がフィードバックされないというのは恐るべき停滞を招いてしまうだろう。否、招いてしまったのだ。

日本国憲法もマッカーサー欽定の「不磨の大典」化しているというような皮肉はさて置き、教育勅語の問題点もまさに「勅語」である点であろう。即ち、異論や反論を許さない「空気」を生み出しやすく、実際、生み出してしまったこと。そして、それを利用するものが、本来の意味を「曲解」してもそれを「曲解」と指摘しにくく、勅語それ自体も「勅」であるが故に天皇自身が改めるしかなく、継続的改善がほとんど不可能なこと、これが教育勅語の本質的な問題点であろう。左派は教育勅語を「悪魔化」することで、右派はそれを「神授化」することで、どちらも絶対化している点では変わらず、全く建設的ではない。

教育基本法でも何でもいいが、このような「法」は所詮人間の作るもので、どれほど正しそうでも欠陥があり、執念深く継続的に見直しと改善をするサイクルが必要という前提に立たないと、結局、戦前と同様の過ちを繰り返すだけになるはずである。必要なのは菊の御紋ではなく、製造業におけるTQM(統合品質管理)である。そこには日本国憲法ももちろん含む。人間が作り出したものである以上、無謬であることはできない。それゆえ、日本国憲法だけ例外などということはありえない。


教育勅語とは復活や全否定を議論するような性質のものではない。日本人が「かつて運用した教育の基準として歴史的に学ぶ対象」というのがあるべき姿であろう。自分たちの歴史として敬意を持って学べばいい。そして反省すべきは「天皇制ガー」とか「軍国主義ガー」ではなくて、神聖なものを現実世界に持ち込むと、フィードバックループが回らないという点のはずである。ボルトアクション自動小銃に立ち向かった父祖達の負け戦から学ぶべき点はまだまだある。だが多くの場合、問題の本質を取り違えていることが多い。今回の騒動でつらつら思ったことを整理してみたが、いかがだろうか。

2017年3月10日金曜日

知らないし興味もない人々

先日、妻とたわいのないおしゃべりをしていた際にどうしたわけか、赤尾敏の話になりました。妻の勤める会社での食後の放談の席で少し話題になったようです。その際に同僚の女性(女性だけの食事でしょう)が「ほら、安倍さんは戦争したがっているから」と発言したそうです。「そういう連中はまだまだいるんだなあ」と思っただけでしたが、すこし考えてみることにします。

その発言をした女性がどのような人かは一面識もない私にはわかりません。ある種の確信犯的プロ市民かもしれませんが、まあ確率論からするとその可能性は低いでしょう。ある意味で典型的な「オバちゃん」の発言と捉えて話を書いていきます。だいぶ減ったとは言え、まだまだこのような「オッちゃん・オバちゃん」がマジョリティでしょうから。

別に悪いとは言いませんが、この手の人々は本当のところ、半径10メートルより外の世界にはほぼ興味がないと考えたほうがよさそうです。勿論、たいていテレビは大好きですから、トランプ大統領や小池都知事、安倍首相やらを知らないわけではありません。ただこの人々は「政界」や「外国」を地続きの世界とは捉えていません(理解はしているのでしょうが)。基本的には「芸能人」と「政治家」が頭の中の同じ箱に入っているでしょう。すなわち、自分とは関係がないけれど、とりあえず「有名人」という箱に。或いは「テレビに出てる人」の箱かもしれません。

実際にはテレビの向こうの「芸能人」が何を言おうが、何をしようが、われわれの生活にはほとんど影響がありません。せいぜい「快・不快」の感覚が残るだけでしょう。ところが「政治家」はそうは行きません。彼らの言動は立法・行政・司法を通じてわれわれの生活に直接入り込んできます。政治家が経済政策を間違えれば、父ちゃんの給料はさっぱり上がりませんし、為替相場が変動して、ボーナスは減るし、物価はあがるし、なんてことになったりするわけです。しかし、マジョリティの「オッちゃん・オバちゃん」はそうは考えないようです。というより考えられないのでしょう。

こうした人々を嗤うのは簡単ですが、マジョリティである以上、無視するわけにもいきません。というよりも「世論」はこの人々の声の束のことですし、その束が同じ方向を向いたときには、抗う術すらない怪物になります。現代の「リヴァイアサン」と呼ぶべきかもしれません。ちなみに束はラテン語で「ファスケス」即ち「ファシズム」の語源でもあります。実はこのリヴァイアサンがファシズムの生みの親であるわけです。

とここまで考えると「オッちゃん・オバちゃん」一人ひとりは単なる(不勉強な)善良な市民でしかありませんが、怪物「リヴァイアサン」を構成する恐るべき人々であることがわかります。この怪物をどう手懐けるのかというのが、「リヴァイアサン」に主権を与えてしまっている民主主義世界のファーストプライオリティなのかもしれません。というよりも政治家は本能的にファーストプライオリティとして行動しているでしょうが。

このリヴァイアサンを構成する「オッちゃん・オバちゃん」は抽象的に物事を考えることができません。というより抽象的な思考を受け付けません(私の文章のうまい下手は別にして、何を書いてあるか理解できないでしょう)。また、思慮に欠けるので基本的に脊椎反射で物事に対応します。この無思慮な脊椎反射が束になるとどのような力が振るわれるのかは、昨年の「保育園落ちた、日本死ね」騒動を思い出すだけで十分でしょう。これは「はてなブログ」に匿名で投稿された文章があれよあれよという間に国会での討議のネタになったというものです。とはいえ、保育園不足、待機児童問題はずっと前からあり、「はてなブログ」に限らず、専門家も市井の人も数値的根拠や自らの経験から理知的に声を上げていました。ある程度はこの声が「待機児童問題」として認知されましたが、結局爆発的な広まりを見せたのは「保育園落ちた、日本死ね 」な訳です。ベクトルが違うだけで「鬼畜米英」と同じセンスだと私は思います。

残念ながら、戦前も日本は議会制民主主義の国でした。帝国議会の議員は基本的に選挙を経るため、世論というものから自由になれません。いわゆる普通選挙が実施されている戦後はなおさらそうです。大東亜戦争は「オッちゃん・オバちゃん」の脳内にある「陸軍を中心とした一部の軍国主義者が善良な市民をだまして無謀な戦争を始めた」訳ではありません。端的に言って、市井のマジョリティ「オッちゃん・オバちゃん」達が軍人もびっくりの軍国主義的マスメディアにあおられて、「鬼畜米英!」「暴支膺懲!」と言い出したから、帝国議会が翼賛化したのです。

この「オッちゃん・オバちゃん」という「知らないし興味もない人々」というリヴァイアサンをどのように弱体化させる、言い替えれば「知らないし興味もない人々 」をどう減らすのかというのが、政治家やマスメディア、官僚、教育のような「インテリ」な人々の重要な「高貴なる責務」でしょう。


そのアルファにしてオメガの方法は「自分で調べて、自分で考える」ことを当たり前にすることでしょうが、これほど困難なこともあまりないように思います。