2017年8月15日火曜日

2017年の敗戦の日、或いは保守本流への警告

毎年のことだが、8月15日が近づくとあちこちで「あの戦争はなんだったのか?」という問いが、メディアを賑わす。勿論、議論のレベル感は様々であるが、いい加減飽きてきて低調になるどころか、戦後民主主義の呪縛が薄れたこの10年、さらに百家争鳴の度を増しているように見える。

新聞テレビを中心にした既存のメディアとネットを中心とした新興メディアはお互いを嘲り、罵りあいながら大きく分断している。当然ではあるがこれまでの慣習とビジネスに縛られ、また、権力を監視するという名の権力から生ずる既得権益の構造が出来上がっている既存メディアは強く戦後の「タブー」に縛られ、いわゆる「左翼的な」論調であり、その縛りが少ない新興メディアはむしろ「右翼的・愛国的」な論調が多い。むろん、個人が発信できるネットメディアは極左から極右、或いはおそらく正常な精神ではないようなものまで、玉石混交ではあるものの、印象としては述べた通りである。(統計を取ったわけではないので正確なところはわからないが)

ネット言論においては「アンチ安倍」vs「親安倍」という構図が、「左翼」vs「右翼」、言い換えれば「革新・進歩主義」vs「保守・伝統主義」を代表しているといっても言い過ぎではあるまい。
さて、終戦記念日である。この言い方もある種の欺瞞があるので本稿では以下「敗戦の日」ということにしよう。勿論、9月2日の降伏文書署名など分かった上での話である。

72年目の今日、私が問いたいのは「保守」と呼ばれる人々のスタンスである。はっきり言って戦後一世を風靡した「左翼」思想はもはや破綻している。影響力としては最盛期を100とすれば1-5程度であろう。先日の東京都知事選挙を思い出せば、その「左翼思想」はもはやたんなるノスタルジでしかないことがよくわかった。鳥越俊太郎が何を喋ろうが、ボケ老人の寝言以上には受け入れられることはなかった。その意味で鳥越の失態というか、痴態は、戦後左翼にふさわしい断末魔、或いは断末魔さえ意識できない「死」を象徴するものであった。

だから、ここから先いわゆる「左翼」は批判の対象としては登場しない。ここから先に左翼と呼ぶのは筋金入りの共産主義者若しくは社会主義者のことである。もはや破綻寸前でジリ貧な彼らはその影響力を大幅に低減させている。今後、残党は先鋭化し、先祖返りしていくだろう。その意味では、騒々しささえ我慢すればよい。だがしかし、問題は「保守」である。なぜならば現代の保守本流というものが私には「保守」の名に値しないのではないかと考えている。

2012年12月安倍首相は「価値観外交」という言葉を使った。日本は「自由と民主主義」を中心としたイデオロギーを共有する国と「価値観を共有している」というわけだ。ここで言う国の代表格がアメリカであることは言うまでもない。占領の終わった1952年から、米国への消極的追従を「外交」と呼んでいた日本は、アメリカを前提としない外交を考えることができない。それゆえ「価値観外交」という言葉は「アメリカと価値観を共有する」という意味でしかない。少なくとも「アメリカシンパ」の国々と仲良くしようという意味である。

それから5年、依然として日本の政治状況はあまり変化がない。ということは「価値観外交」は続いているということだろう。現在の政治的状況への対処の手段としては「価値観外交」はわからないことはない。だが、これは大きな問題を孕んでいると私は思う。

アメリカの価値観の核にあるものは「自由と民主主義の普遍性を信じる」ことと「普遍であるがゆえにそれを世界に広める使命があると信じる」ことである。平たく言えば「スターウォーズ」の価値観である。悪の帝国に正義の「自由と民主主義の」戦士が立ち向かい、最後は勝利するというアレである。単純かもしれない。しかしフランス革命の普遍主義を引き継いだアメリカの普遍主義は、戦争をも辞さないという点において、相当に真剣かつ深刻なものだ。そのような歴史的使命があると自覚する国家の価値観というのは相当に特殊である。また、そのように人類が進歩していくという価値観であり、その観点ではアメリカは左翼国家だということができる。さらに人工的、進歩主義的、普遍主義的であったソ連の崩壊にともない、アメリカは世界で最も左翼的な国家の位置に来たということもできる。

翻って、わが日本はどうだろうか。「自由と民主主義」を普遍、即ち、真理であり、これを世界に広げることが正義であると信じているだろうか。私には決してそうは思えない。「自由と民主主義」は伝統的で土着的な「日本的なもの」という土台の上に刺さった旗程度のものだろう。とりあえず、それが正しいということになっているが、そんなものは時間の流れの中で差し替えられる程度のものだ。ちょうど1945年8月15日に「軍国主義」の旗が「自由と民主主義」の旗に差し替えられたように。


保守本流の人々は「そんなことわかっている」というかもしれない。それならばよい。だが「手段」と「目的」の混同の危険はいつだってあるものだ。「日本を取り戻す」ことを目的とし、「対米追従」を手段としていたのに、いつの間にか「対米追従」が主目的になり、「日本を取り戻す」が選挙民から票を集める手段になりかねない。保守を名乗る人々は今一度、何を保守するのかを考えたほうがいい。

2017年8月1日火曜日

「民主主義」というマジックワードの超克

戦前における「国体護持」と同様に、戦後は「民主主義」がマジックワードとして流通している。今風に言えばバズワードと言ってもいい。政治的に誰かを非難する時には右も左も「民主主義の破壊だ!」「民主主義を根底から覆す…」云々。しかし、これらの言葉は没論理である。正直に言えば「吠え声」と変わらない。なぜなら「民主主義」という言葉の定義が全く共有されていないので、「民主主義に照らして、XXXXだ!」と主張しても、論理(ロジック)が意味をなさない。


見たところ、職業的な政治家はプロフェッショナルらしく、このことをちゃんと自覚している。選挙制度に基づく政治の本質は、被統治者である国民の政策への関心が下がるほど、カタルシスを目的としたステージショウ、はっきり言えば「見世物」であり、見世物である以上、論理よりも印象を操作するほうが、ずっと効率的に選挙権をもつ国民に訴えるだろう。少なくとも小泉旋風、劇場型政治といわれてからこっちは、職業的な政治家はそれを自覚的に行っているだろう。そう思えば、この「戦後民主主義」体制下の政治家も「まともな国家運営をしながら人気取りもする」という点でなかなか大変である。ついつい同情してしまうこともある。

民主主義とは何か?という問いそれ自体は非常に重要ではある。しかしその重要性はあるべき政治体制の模索のためという本来的なものとして、多くの人に意識されているわけではない。そうではなくて、単なる前提なしの「正義」の源泉として、平たく言えば正当化のための錦の御旗として利用されるために問われることがほとんどである。やや空しいが仕方がない。日本を含む先進国においては、「隣人愛(博愛)」は知らないが、「自由と平等」はかなりの程度達成してしまっており、また、「権力vs市民社会」というような構図は意味を失っているため、「民主主義」を問うことの意味はその中に住む国民にとってほぼ無意味である。

大雑把に構図化してみると、元々キリスト教的な進歩史観、終末思想、つまり「唯一の神が何らかの目的をもってこの世を作り、いずれその目的は達成され、歴史は終わる」という観念を持たない我々日本人は、様々な大陸の思想に影響を受けながらも、ある種独自の価値観のなかで江戸時代まで生きてきた。それは「大目標を持たない」という点で恐るべき停滞の時代だったかもしれないが、ともかくも西洋的(=キリスト教的)なものとは異質のものとして繁栄してきた。しかし、幕末に西洋文明と対峙することにより、己の無力さを自覚するとともに、西洋的価値観を「正しいもの」として取り込んでしまった。平たく言えば、西洋にシビれてしまった。さらに新興の西洋化国家の帰結として大東亜・太平洋戦争に突入し、壊滅的な敗戦を経験した。それ以降、日本の諸悪の根源は「民主化=西洋化が不足していること」と認識されるようになった。丸山真男的な「(欧米は進んでいるのに)日本は遅れている」という考え方である。

だが、「民主化=欧米化」が無条件に礼賛されるべきという発想はソヴィエト連邦の崩壊以降、加速度的に意味を失っている。そのことは別段インテリ層でなくとも「素朴な庶民」でさえ理解している。表現がうまくできないだけである。なぜならば「自由・平等・博愛」の極点、つまり行き着く先のひとつが共産主義であることは誰にでも理解できるからである。資本主義vs共産主義というのは、決して民主主義vs全体主義ではなく、(自由を強調した)民主主義vs(平等を強調した)民主主義ということだったのだ。

このあたりから「資本主義の勝利」というような「祭りの季節」が過ぎると、もはや民主主義それ自体の意味を問うことがなくなっていく。そしてそのことは不安を生み出す。それはこういうことである。「平等を指向すると社会主義・共産主義に行き着くが、それは歴史によって否定された。しかし、残った自由を志向する資本主義的自由主義は多くの格差を生み出し、我々も貧乏のままである。それでよいのだろうか?」と。

少なくとももはや「民主化(=西欧化)が不足している」という議論はゾンビである。ただ、マスメディアを中心とした無意味かつ有害な「お作法」でしかない。大切なことは「民主化が足りない!」とか「民主主義の危機だ!」という戯言に接したときに「具体的にどういうこと?」と問うことである。非常に地味ではあるが、これをすることでマジックワードは崩壊する。AIだIoTだと言われたときに、具体的に何ができるようになるの?と聞き返せばたいていの営業やコンサルは「あわわわわ」となるのと同じことである。その結果、正しいことや向かうべき未来がますます見えなくなるだろう。そしてますます不安になるだろう。するとおそらく気が付くだろう。我々は「退屈」しているだけなのだと。


その「退屈」の名はニヒリズムという。すべてはその自覚から始めるしかないと私は考える。

2017年7月30日日曜日

エデュアルド F6F-5 ヘルキャット 1/48

プラモデル制作記です。

完成から間が空いてしまいましたが、2週間ほど前にエデュアルド社製のグラマンF6F-5が完成しました。4月初旬から初めてちょうど3か月かかった計算になります。「太平洋の蒼い魔女」こと「ヘルキャット(ガミガミ女・化け猫の意)」は第二次世界大戦中盤に登場し、零戦をはじめとする日本軍機をなで斬りにした恐るべき戦闘機です。オーソドックスかつ堅牢な設計で、旧式となりつつあった米海軍主力戦闘機の後継機の本命であった、新機軸の多さから実用化の遅れたF4Uコルセアへの繋ぎとして採用され、その結果、繋ぎどころか終戦まで主力戦闘機であり続けました。

速度、運動性、上昇力、武装という要素はすべて1.5流、堅牢性は1流、しかし、そのバランスの高さが超一流という優れた戦闘機であり、いうなれば10種競技のチャンピオンのような戦闘機です。零戦が、運動性と武装と上昇力が超一流、しかし堅牢性は3流以下という欠点があったこととは対照的に、弱点のない戦闘機ということができるでしょう。

日本のある年代から上のいう「グラマン」とはこの戦闘機のことです。私の父も東京大空襲の頃、当時住んでいた大森から千葉へリアカーで疎開したそうですが、途中東京湾で「グラマン」に機銃掃射されたとのことです。もちろん、別の機体だったかもしれませんが、アメリカの小型飛行機はまとめて「グラマン」だったわけです。「最も日本軍機を叩き落した戦闘機」に敬意を表して作成してみました。

さて、前置きが長くなりましたが、早速作ってみましょう。今回はチェコの老舗「エデュアルド社」の1/48 Grumman F6F-5 HELLCAT Weekend Editionです。以前下北沢のプラモデル屋で、どういう風の吹き回しか妻が買ってくれたものです。模型製作上のテーマは「以前、カーモデルで身に着けたミラーフィニッシュを飛行機でやってみる」です。



なかなか変わった成型色ですね。胴体部分がオリーブ、翼部分がグレー。

いつもはコクピットから作りますが、今回はエンジンから行ってみましょう。2000馬力級のエンジンはさすがにデカい。


プロペラもつけてみます。F4Uとエンジン・プロペラは共用ですが、現代でも通じそうなところがさすがに先進国。

基本的に外国機は追加工作はしませんが、シートベルトぐらいは足しておきましょう。


サクサク組んでいきます。エデュアルド社のこのキットはかなり新しいとのことで、よくできています。パテはほとんど無用です。


試しに胴体だけクレオス社のスプレー缶「ネイビーブルー」で塗装して、軽く研磨してみます。


なかなかよい感じです。なのでこのまま全体をネイビーで塗装。主要なデカールを貼付して、大量にクリア塗料をやはりスプレーで吹き付けます。乾燥したらひたすら研磨。タミヤのコンパウンドの極細、仕上げ目で顔が映り込むまで磨きます。


まあ、こんなものでしょう。自然光でもチェックします。

あとは悔しいですが日本軍機のキルマークや細部のデカール、筆塗で仕上げたキャノピーを乗っけて、すす汚れなどを表現して完成です。




いかがでしょうか。制作期間は工数的には2週間ぐらいでしょうが、スケジュール的には3か月かかってしまいました。




現在は以前作成したF4Uコルセアと共に、1945年の米海軍主力機を書斎の飾り棚に置きました。

次回は当面最後の外国機かつ現用機ですが、勝手がわからず苦戦中です。とうとうエアブラシを購入せざるを得ないかもしれません。それはそれで楽しみですが、時間をどうやってひねり出すかが最大の課題です。


2017年7月25日火曜日

サラリーマン生活を終えて

少し間が空いてしまったが、2017年6月30日をもって会社員生活に終止符を打ち、小さなコンサルティング会社を立ち上げて独立開業した。その選択が正しいのか誤りなのかはわからないが、二十代の終わりのころから考えていた独立を十年かけて実現にこぎつけたということになる。ひとえに家族、友人、職場の仲間、お客様のお陰であり、陳腐な言葉かもしれないが、赤心より感謝しかない。ありがとうございました。

私事を書き連ねるのはあまりよい趣味ではないが、少し会社員生活を振り返ってみたい。後進の若者の何かの参考に、或いは自己紹介になれば幸甚である。

私は1999年3月に大学を卒業したので、見事に「ロストジェネレーション」の世代であり、就職活動は厳しいものであった。とはいえその渦中にいた時は、景気の良い状況をしらないのであまり大変だとは感じていなかったが。150社ほど資料請求してエントリーシートを書き、30社ほど訪問と面接を繰り返してどうにか一社の内定を得て、大手百貨店の情報システム子会社に入社した。当時は事業会社が情報システム子会社を設立するのが流行しており、商用インターネットの黎明期ということもあって私のような「パソコンに触ったこともない」という学生でも受け入れてくれたのかもしれない。

右も左もわからないので、唯一イメージができる営業部門を希望したが、人手不足の開発部門に配属となり、とりあえず初心者プログラマとして会社員生活をスタートした。しかしすぐにプログラミングという作業がどうにも好きになれないことに気が付き、お客様との折衝や仕様の落とし込みの方が得意となって、わりと早い時期からプロジェクトリーダやプロジェクトマネジャを経験させてもらった。周囲にはプログラマ志望が多かったので、客先に出向いたり、折衝したり、見積や収支計算をすることに対して積極的な人がいなかっただけであって、私が優秀だった訳ではない。

社会人4年目の頃、「報酬は入社後、平行線で~♪」という椎名林檎の「丸の内サディスティック」を聴きながら人並みに、自分の商品価値はどの程度なのだろうか?と疑問を持ち始めた。仕事を一通り覚えた二十代後半の若者がよく陥る考えだが「勝負に出たい!」と思い始めたわけだ。事業会社の情報システム子会社というのは、基本的に事業会社とそのグループ内の情報システムを担う。それゆえに、グループの外については、転職した先輩社員やものの本からしか情報を得ることができない。ちょうど小泉旋風が吹き荒れ、弱肉強食の新自由主義が「正しい」と思われていた頃、自分も見事に「新自由主義者」として、弱肉強食の世界に出たいと考えたわけだ。また、酒飲みだったので給料を上げないとカードの引き落としが回らないという恥ずかしい理由もあった。

「力を試せて高給な職種は?」というなかなか若気の至りな理由で転職支援の会社へ相談すると、コンサルティング会社という選択肢を提示された。「コンサルティング会社で5-6年頑張り、事業会社へ情報システムの部長職へ転職、もしくは独立開業」というアイデアに夢中になり、社会人6年目の頃、米国資本のコンサルティング会社へ転職した。

そこは’UP OR OUT’(昇進かクビか)の文化のある典型的なコンサルティング会社で、製造・流通業を担当する部署に配属されると、早速現場に投入された。ここに転職して驚いたのは、言葉を選ばずに言えば「バカ」がいないということである。考えてみれば当たり前で「使えない」と思われれば即座に実質解雇になるのである。周囲の成長(特に理解力と知識の吸収率)と体力に圧倒され、ついていくのが精一杯という状況であった。例えば明日中国工場に出張して工場長にインタビューするのに、こちらは工場について何もしらないのだ。仕方がないから本を何冊も買い込んで、徹夜で読み込み、飛行機の機内でも読み込み、大慌てで資料を作ってインタビューに臨む、などということが常態である。気が付けば一般論だけならクライアントに負けないだけの知識(だけ)は身についていた。

しかし、そんな生活はそう長く続けることはできず、3年目に体調を崩したことと結婚を機に事業会社へ転職することにした。コンサルティング会社での3年間は地獄でもあったが、多くの知己を得たことと世界が広がる契機となった。その意味では大きなターニングポイントであった。

転職相談に行った転職支援企業(実は最初の転職と同じ会社)より、「それならウチにくれば?」とお誘いを受けたので、ちょうどベンチャーを脱したばかりのその会社にお世話になることにした。このころから「コンサルタントを軸として生きていこう」という考えが定まったので、様々な業界の状況を知り、人脈を広げるという(浅はかな)魂胆もあって、「転職志望者を企業へ紹介する営業」として配属の部署で仕事を始めた。

ここは何しろ若い人が多く、上司でさえ年下であり、若者を支援しつつ営業活動をするという毎日で、急成長した企業の御多分にもれず、早朝から深夜まで働きまくるという文化であった。その環境自体はコンサルティング会社で慣れていたのでどうということはなかったが、時あたかもリーマンショックの年で、一気に不況となった際の経営陣の対応が目に余ったので「申し訳ない」という思いを残しつつ、やはりお誘いを受けていた当時の営業先の製造業の会社へ移った。製造業といってもいくつかの事業部を抱えており、製造業向けのパッケージシステムを製造販売している部署であったので、何かの役に立つだろうという確信ともう少し事業会社について知っておこうという考えからオファーを受けることにした。

給料はさほど高くはなかったが、本業のエアコン事業が絶好調であるため、雇用に関する不安等はなく、ともかく製造業の企画・設計・生産準備・品質管理の業務を吸収し、2年間の営業を経て、コンサルティングサービスを立ち上げ、いくつかの会社にコンサルティングを実質一人で提供する機会や、社内のグローバルプロジェクトを手掛けたり、新製品を立ち上げる機会など、8年半にわたり、非常に充実したものとなった。もちろん楽しいだけではなかったし、腐ったりもしたが、ともかく様々な知己を得、終わってみれば感謝である。

結果的にIT・業務・経営のコンサルタントとして独立までようやくこぎつけることができた。それが成功なのか失敗なのかは全くわからないが、少なくとも思い描いたことが実現できたということになるだろう。最初のクライアントにもスムーズに恵まれ、とりあえずよちよち歩きながら、会社をスタートさせることができた。最後の決断には家族や住宅ローンなどもあるので、それなりの勇気が必要だった。しかし妻をはじめとした周囲の理解、これまでご縁のあった方の手助けなどのおかげで、とにもかくにも船出をすることができた。

振り返ると、ひたすらここまでは人に恵まれたというのが実感である。「お陰様」という言葉があるが、この意味をかなり実感を持って噛みしめている。これまでの社会人生活で出会った人々、学生時代の仲間、直接しらなくともWEB経由で知り合った人々、そしてなんといっても家族、とりわけ妻の理解がなければなにもできなかっただろう。


従業員ではなくなり一人になってみたほうが人のありがたさが実感できる。逆説的だがそういうものなのかもしれない。皆様、感謝です。引き続きよろしくお願いします。

2017年6月13日火曜日

語り部たちへの反論(シリーズ:何を反省するのか?)

池田信夫氏主催のサイトであるアゴラで「戦争体験者の私が、いまの政治家に申し上げたいこと --- 釜堀 董子」という一文を読んだ。私の父の年代である戦中派(1937年生)の著者が自らの実体験をベースに現政権や「右傾化」する比較的若い世代を批判する内容である。戦中派の語り部が行う議論のある種の典型であったので、チェックしておきたいと思う。というのは、その実体験に対してどうしても「遠慮」が発生してしまい、それ自体が異論を許さないという議論の拒否や思考停止を生むと考えるからだ。正直なところ私もこの「遠慮」から自由でないし、若干己の中の抵抗を感じながら書いている。しかし、議論の拒否は不毛なのであえて反論したい。もちろん釜堀氏は面識もないし、その御年でウェブメディアに寄稿されていることには敬意を表する。個人的な悪意があるものではないことをお断りしておく。


『1937年生まれの私は、12月に80歳を迎える。実体験は少ないが、まわりから教わった戦争体験を、しっかりと伝えることが必要ではないかと感じている。』

このような書出しから始まる。読者はここで「戦争体験者」と思う。そして「戦争反対」「九条守れ」という議論が展開されることを容易に予想してしまう。そして案の定、記憶が定かでないとエクスキューズを入れつつ、出征兵士が「万歳」の声に見送られながら目に涙をためていて「本当はみんな行きたくない」と当たり前のことを説明する。冷血漢の汚名を恐れずに指摘しよう。この著者が想定している読者は戦後生まれ、団塊の世代以降であろう。ウェブメディアへの寄稿がその証左であるし、戦中生まれと戦後直後生まれの世代がもつ共通認識(とこの著者が信じているもの)を持たない世代を想定している文章であるからだ。逆に言うと、「戦争を知っている」ということを根拠とした権威主義に基づいているとも言える。

さて、出征兵士が「本当はみんな行きたくない」のを60年代以降生まれ(取り合えずややこしいのでそう定義しておく)のわれわれが想像できないとでも思っているのだろうか。ちょっと調べれば「徴兵逃れ」などはある種の常識であったことは分かるし、どこの世界にリンチで有名な帝国陸海軍に徴兵されて、しかも死地に赴かざるを得ない事を歓迎する人がいるだろうか。出征兵士は行きたくないが義務として、男性に生まれたある種の宿命と思い定めて出征した人がほとんどだっただろう。もし、兵士は嬉々として戦地に赴いたと信じている人がいたら、左右を問わず正常な精神を持っているとは思えない。また我々の世代が「万歳」の中出征したのだからうれしかったはずと勘違いしていると思われているのであれば、「馬鹿にするのもほどほどに」していただきたい。「万歳」は建前に過ぎぬ。当たり前である。



1937年生まれということは1940年、1942年生まれの私の両親とほぼ同年代である。この世代の戦争経験とは「疎開」「外地からの引揚」「空襲」「機銃掃射」「原爆」「敗戦」「傷痍軍人」「占領」である。直接地獄の戦地に赴いたわけでもない。赴いたのはその親の世代である。そして幸運にも生きて内地に帰ってきた人々に戦争の話を聞いたはずである。著者は1945年には8歳、最終位置がどこかによるが、出征していた父がいれば再会したのはおそらく1945年から1947年であろう。するとそのとき彼女は8歳~11歳の少女だったはずである。そのかわいい盛りであり、感受性の強くなる思春期直前の娘に対して出征した父や元兵士の大人たちは難しいことや残酷なことを語っただろうか。語るわけがない。戦争のこと質問したって、黙したか、「戦争は悲惨だよ」以上の説明しかしなかったであろう。当たり前である。敗戦によって否定された自分たちの信念や大儀、そこに至るまでの政治的な経緯のような難しい話は子供には理解できない。ましてや占領され米国による国家改造が進む中で、余計な情報を、生きにくくなるような情報を子供に教えるわけがない。


『時は流れて、日本は終戦72年を迎えた。日本人でありながら世代間による戦争の考え方は大きく変わってきている。私の世代は「二度と戦争はすべきでない」と答えるだろう。しかし、若い世代は「日本は強くなるべきだ」「平和を守る一員になるべきだ」と答える。』

と嘆いてみせる。ほほう。「二度と戦争をすべきでない」と答えるのは1935年~1950年代に生まれた世代だけだろう。あるいはそれ以前に生まれていても銃後にいて安全と思い込んでいたのに、爆撃により殺されかけたり、家族が死んだりしたケースでかつ、あまり何も考えていない人だけである。少し言い過ぎかもしれぬ。「二度と」とは'NEVER'の意である。だから、この議論は「他国が攻めてこようが、無抵抗でされるがままにされるべきだ」という結論に当然に行き着く。そして、その結果としての隷属や陵辱、そして家族の死を甘んじて受けよということになる。はっきり申し上げて「何を言っているのだ」である。「戦争をすべきでない」。同意である。全力で戦争に突入することは回避すべきである。だが、他国が、具体的には中華人民共和国や北朝鮮が侵略してくれば、反撃する必要があるに決まっている。また、日本を守るためならば「他国の兵士(若者)」が血を流しても、自国は血を流さないということには言及しない。当たり前の反論に耐えられる程度の正当性すら持っていない。ただひたすら戦争は「悪」だと言い募っているだけである。はっきり言えば思考停止であり、議論の拒否である。


『私の子ども時代や若い頃は、戦争といえばそれだけで世論が沸騰した。戦場へ行った人たちが大勢いたからである。戦地にやらされ、九死に一生を得た彼らの感情は激しかった。一方日本国内は、空襲や原爆で廃墟になっていた。戦争の悪は日本人すべてが認識したといっても過言ではない。戦争につながるものは激しい批判にさらされた。

だから憲法9条も非武装中立も、さほどの違和感なく受け入れられたのである。民主主義も男女平等も新憲法も、天皇が神から人間になったのも、すべてが180度の転換だったが、すんなりと行われたのである。』

あえて言い切ろう。認識が間違っている。戦場で生き残った兵士が激しく反応したのは道義的な理由ではない。日本が近代戦を遂行する能力がない事を肌感覚で知ったからである。少なくとも「精神力が戦車を圧倒する」というような思考はまったく無力であることを知っており、ただ精神力を強調するだけの上層部が無能であることを、そして補給なき軍隊がどのような地獄を見るのかを彼らは知っていた。だから反対したのである。しかし戦中派や団塊世代はそうではない。道義的な理由から、あるいは「一部の軍国主義者」に責任を転嫁し、イノセントな自分でありたいがために批判したのだ。反対の理由が違うのである。おそらく忘れておいでだろうが、一緒になって「戦争反対」と叫んでいると、元兵士に「戦争に行っていないやつらに何が分かるか!」と怒られたり、殴られたりということが頻繁にあったであろう。理由は述べたとおりである。片方は「地獄を見た我々の記憶において日本国に近代戦を遂行する力はない。それがゆえに反対!俺たちがいた地獄に子供たちを送るな!」と言っているのである。しかし一方は「戦争は絶対悪だ、その戦争を遂行した戦前は悪だ!(そしてそれに反対している俺たち/私たちは善だ)」と言っているのだ。そして括弧内の思いを前者が認識すると怒られたわけだ。「俺たちをダシにしやがって」と。

今はもう、祖父母の世代はほぼいない。もはやそのように怒られることもなくなり、特権的に語れるようになった。

この後は内田樹を持ち出し、的外れな管理教育論を展開する。ここは、年寄りの耄碌として大目に見よう。
そして民主主義万歳論。敗戦によってもたらされた民主主義が日本はまだ自家薬籠中のものにしてないから右傾化し絶対平和主義が脅かされているというおなじみの展開がなされ、そして安倍政権が強いのは民主化が足りず、マスコミが忖度しているからだという雑な結論になる。しかしながら、民主主義と絶対平和主義は何の関係もない。民主主義はどちらかといえば戦争を生み出す。ファシズムの母体がワイマール憲法下の民主主義であったし、リベラルの皆さんが大嫌いな米国のトランプ大統領も民主主義で選ばれたわけである。もっとも中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国を民主主義と呼ぶなら、言葉の定義が違うので、これは議論にならない。民主主義というのは平和主義とは無関係である。民主主義は古代ギリシャの民主制を原型としており、これは「兵士として命をかける」ので「国政に参加する権利がある」というものである。従って、原理原則で言えば「民主主義=国民皆兵」である。民主主義が大好きな不勉強な向きには意外かもしれないが、そういうものである。もちろん原理原則の話で現在の高度な専門性を求められる軍隊や自衛隊では「国民皆兵」というわけにはいかない。

安倍政権が無駄に強いのではない。民主主義の原則が機能しているために、説得力のある対案が出せる、魅力的なコンセプトが出せる、あるいは人柄を含めてカリスマであるような有能な野党が存在しないだけである。絶対平和主義は単なる空想である。それこそ戦争を知る世代を名乗るならばそれを知っているはずであろう。それが分かっていながらこのような主張をするなら、たんなる欺瞞・偽善であり、分かっていないなら単なる馬鹿である。


以上、非常に心苦しい内容だが、こうした反論をだれかがする必要があるだろうと筆をとった次第。

2017年6月11日日曜日

Zero fighter. In other words, the glory of Japanese Navy

産経ニュースの「零戦」に関する配信記事が右寄りの新聞の割にかなり雑だった。雑というのは異論の多いことをあたかも定説のように書いており、さらに強調していることである。あまり興味のない一般人に広く紹介する記事にもかかわらずこの雑さはいただけない。「現用飴色」論争という、航空評論家でイラストレータの野原茂氏が言い出した「零戦の色」に関する「珍説・新説」に関する論争がある。端的に言ってマニアにしか用のない馬鹿馬鹿しい話なのだが、米国と違ってカラーフィルムの技術がなかった日本の機体は、文献と証言に頼るしかなく、このような水掛け論的な論争が始まる余地がある。野原氏の議論は矛盾と不備が多く、ある一つの文献に在ったという「わずかに飴色かかりたる灰色」を「飴色」と強弁してしまっている。普通「わずかに飴色かかりたる灰色」は「灰色」だろう。他の文献にも誤謬が多く、野原氏の説は信用できない。研究者や知見者はおよそ飴色に否定的、商業ベースは飴色に肯定的というのが現状である。

模型ファンにしか用がない話はこれくらいでやめよう。先日千葉県は幕張で開催されたRedBullエアレース2017を観戦してきた。初めて観戦したのだが、さすがはレシプロ機の最高峰レースの一つ、「空のF1」と呼ばれるだけのことはあって物凄く面白い。テレビ画面で見ていてもさほどではなかったが、クルマなど問題にならない高馬力、高回転のエンジン音が心地よく、アクロバティックなレースを観ていればの細かいレギュレーションの意味もわかる。なんと言ってもスケール感やスピード感を間近で観られる臨場感が素晴らしい。しかも結果は日本人レーサーである室屋義秀選手とチームファルケンが優勝した。

エアレースには空の祭典という位置づけもある。クルマやジェット機と違ってなかなか間近で観られる機会のないプロペラ機(レシプロ機)が高度20−50mを飛び回る祭典には、やはりレシプロ機の最盛期だった第二次世界大戦時代の機体が観たいものである。ジエットという技術革新のあと、レシプロの高性能機を作る意味は失われ、あの当時以上の飛行機はもう永久に現れない。今回のエアレースではブライトリング社が所有する、1940年製(!)のダグラスDC-3と、レストア(修復)された三菱 零式艦上戦闘機がデモフライトを行なった。世界中に4機しかない飛行可能なレストアされた零戦のうちの一機であり、熊本大震災の際にもくまモンのロゴをつけて飛んだ企業を含む有志「零戦里帰りプロジェクト」によるもので、戦後初の日本人パイロットによる国内飛行だった。映像ではロシア製の新造機を含め飛翔する零戦を何度も観ているが、この目で零戦のフライトを観たのは初めてだった。私が観た日は予選の日で、チェックのためかランディングギアを出したままの飛行だったが、夕暮れの中をゆっくりと脚を出したまま飛び去る零戦はあたかも「帰投(帰還の海軍用語)」のようであり、非常に感動的で、観客からも歓声が上がり、それぞれが手を振っていた。

さて、産経新聞の紹介があんまりなので、零戦について簡単に紹介したい。ただあまりにも有名な零戦については良質な専門書も山ほど出ているので、ちょっと聞いたことはあるけどというような人向けにごく簡単に書いてみたい。新聞よりはマシな紹介になるといいのだが。



零戦(ゼロセン•レイセンどっちで読んでもいい。どちらも戦時中から使われていた。)は帝国海軍航空隊が運用した戦闘機である。当時の日本は空軍がなく、陸軍と海軍がそれぞれ航空隊を持っていた。これは米国も同じである。1940年、即ち皇紀2600年に採用されたため、当時の命名規約に則って下の2桁00から「零式」となった。だから、一年前に採用された機体は99式である。正式名称は零式艦上戦闘機(この場合は「れいしきかんじょうせんとうき」)である。艦上というのは航空母艦(空母)で運用することができるということである。空母は案外小さいので、普通の飛行機は滑走路が短すぎて離着艦できない。だから、海軍というのは今でも専用の機体を運用しているものである。

戦闘機というのは敵の飛行機を叩き落とす(撃墜する)ための飛行機である。だから、高速かつ身軽でなければならない。さらに武装が強力なら申し分ない。相手よりも速く、すばしこく、武装が強力ならば圧倒的に有利である。しかし、これらの条件を同時に全て満たすのは難しい。なぜなら、速いということは素早いことと矛盾する。ちょっと考えるとわかるが、クルクルと素早く動き回るというのは旋回性能が良いということである。蝶はヒラヒラと飛ぶ。そして予測不能にクルクルと動き回るから、狙いが定めにくく鳥もあまり狙わないそうだ。なぜこんなことができるかというと、体の大きさの割に翼の面積が大きいからだ。だから非常に素早く、ヒラヒラと舞うことができる。だが翼の面積が大きいとトンボや蜂のように高速で飛ぶことはできない。スズメバチなどは体の割に翼が小さいが、蝶よりもはるかに高速で飛翔できる。だが蝶のようにヒラヒラと舞うことはできない。これが、速さと身軽さ(速度と旋回性能)の矛盾である。更に武装が強力という条件は重量を増すことにつながる。戦闘機の部品でエンジンを除けば武装(大抵は機関銃)がもっとも重い。銃というのは基本的に重ければ重いほど強力なので、強力な武装を積むと、明らかに身軽さに悪影響を及ぼす。エンジンの出力が小さければ速度も落ちる。

ところが、零戦という飛行機は、それを高いバランスで実現させてしまったのだ。1940年当時の基準では速度は一流(500km/h以上)、旋回性能は超一流、武装も当時の水準を抜いたものであり、さらに長時間かつ長距離飛べるという万能っぷりであった。言ってみれば、ボクシングも柔道も強く、短距離走も速く、マラソンも強いという訳のわからない戦闘機であった訳である。普通は「どれか」に優れているものだが、「全て」に優れているという途方も無いことである。当時は軍事大国ではあっても後進国、航空技術など西洋の猿真似(残念ながら1930年代前半までは当たっている)と思われていた日本がこのような万能戦闘機を生み出したことは画期的な出来事であった。戦争が始まっても、先に中国戦線で戦っていたアメリカ義勇軍からの「日本軍の戦闘機は超一流だ」という報告をアメリカ軍やイギリス軍は信じることができず、開戦からおよそ2年間はどちらも零戦に圧倒されてしまう。何しろ、味方のどの飛行機よりも速く、素早く、強力なのだ。敵うはずがない。ゼロというネーミングも手伝って、神秘的なレベルでアメリカやイギリスのパイロットに恐れられた。

これが大げさでないことは1941年の米海軍航空隊の訓示に現れている。「次の場合は戦闘を放棄して良い。1.雷雲に入った時 2.ゼロと遭遇した時」この訓示を聞いた時、誇り高いトップガン達はどれほどプライドが傷ついたことだろう。だが、黄色い猿が作って操縦しているはずの零戦にはどうしても歯が立たなかった。例えば強力な武装を例に挙げてみよう。今日のジェット戦闘機にはミサイル以外に機関銃も付いている。機関銃は進化したバルカン砲だが、最新鋭かつ最強と呼ばれるアメリカのF-22ラプターの機銃の口径は20mm(直径2cmの弾丸が打ち出されるということ)である。では零戦はといえば、なんと同じく口径20mmである。つまり、戦闘機としては時代を先取った最強に近い武装である。当時のアメリカの機銃はほとんど7.7mmから12.7mm。これに加えて一流の速度と、そしてこれは大戦末期まで揺るがなかった素早さ(旋回性能の高さ=格闘戦の強さ)が加わり、初期の頃のキルレシオ(撃墜対被撃墜比率)は一説には50:3(零戦が50機撃墜する間に3機しか墜とされない)ということもあったそうだ。

だが、非常識なまでに高性能な戦闘機には、非常識な弱点がある。アリューシャン列島で不時着した零戦を徹底的に調べ上げた米軍は弱点を見つけた。速く、素早く、パンチ力がある戦闘機を実現するために設計者の堀越二郎技師のとった方法は徹底的な軽量化だった。骨格に当たる桁にも軽量化のために孔を穿ち、操縦席のシートさえ穴だらけである。増してや防弾板など以ての外。そしてそのため、比較的脆弱であり急降下速度も遅く、高速時のカジの効きも悪い。ほんの些細な弱点かもしれないが、そこをつかねば勝てないし、アメリカのパイロット達は日本のパイロットよりも高い柔軟性があった。それ以降、対零戦の戦法を確立し少しづつ、しかし確実にキルレシオを逆転させていった。

また、防弾装備がないということは撃たれても墜とされてもパイロットは死ぬということだ。優秀なパイロットが次々と戦死し、石油と国力の乏しい日本はジリ貧となっていく。アメリカは零戦を凌駕する高性能な戦闘機を次々に送り込み、また豊富な石油資源を背景に十分に訓練された新人パイロットを補充する。資源も基礎工業力も乏しい日本は、敗戦まで零戦に頼るしかなく、最後はまっすぐ飛べるだけの新人パイロットが零戦に乗って特攻するということになった。それは日本海軍の栄光と没落そのものだったろうと私は考える。


ざっくりと零戦に付いて書いてみた。この程度のことは新聞ならば書いて欲しい。何色だったかなど瑣末な話である。エアレースで飛んだ零戦は22型という形式である。零戦とそのパイロットがもっとも脂ののった時期、ニューブリテン島のラバウルでアメリカ軍と激戦を繰り広げていた頃のものだ。そんなことを考えながら幕張の空を思い出している。

2017年6月8日木曜日

光の暴走

19世紀末の西欧世界(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー)において、象徴主義というダークな世界観を特徴とした芸術が成立した。絵画ならモローやクリムト、ワッツ、ムンクなど。文学なら「悪の華」のボードレールを嚆矢として、マラルメ、プルースト、ランボーなどだ。彼らは天使より悪魔を、ユートピアよりディストピアを、幸福より不安を、理論より神秘を表現した芸術家たちだった。世紀末象徴主義と呼ばれ、キリスト教暦の100年期(世紀)末の不安による退廃的なムードを反映した芸術と一般的には乱暴に思われている芸術運動である。


1000年期末(ミレニアム)をお祭り騒ぎの中で終え、今は新しい1000年期と世紀がスタートした直後である。だが、大雑把に言えばグローバリズムの失敗が明らかになりつつある今、少しずつだが確実に洋の東西を問わず、不安が広がっているのは間違いない。
19世紀末の象徴主義(ちなみに、この時代の絵画は好きだ。ムンクの『思春期』など大傑作だと思っている。)は果たしてキリスト教的な、あるいは信仰が失われていくなかの嘆きだったのだろうか。私は違うと思う。これは「産業革命」というテクノロジと経済がすべてを覆うことへのカウンターであり、人の精神の営みを含めて、テクノロジーによってあらゆる闇(即ち無知蒙昧さ)を駆逐されると知識人でない普通の人々までが予感したことへのカウンターだっただろう。つまり啓蒙主義へのアンチテーゼでもあった。

電気の普及はこれからだったが、ガス灯(ディズニーシーへいけば、当時のニューヨークの雰囲気が再現されている)はあり、闇が駆逐されてきた時代、とりあえず芸術家というセンサーの鋭い人々はこれを「光の暴走」と捉えたのではなかったか。その産業革命という光は芸術という「心的な領域」さえも脅かすほど煌々と闇を照らしたがゆえに、それを恐れた芸術家たちは闇を濃く表現しようとした、それが象徴主義であったように思う。


「陽極まれば陰に転じ、陰極まれば陽に転ずる」という考え方が陰陽五行の思想にある。正しいかどうかは知らぬ。ただ、19世紀半ばは18世紀から続く産業革命の光(陽)が極まった時代であったように思う。そして太極図の反転した小さな円のように生じた陰、それは人々の不安であり、恐れであったとすれば、それに形を与えたのが象徴主義であった。エドワルド・ムンクの『思春期』を見よ。これほどまでに「不安」をキャンバスに表現した絵があるだろうか。「怖い絵」と言われるのもむべなるかな。なぜならそれは「不安」の具現をみているからだ。


その昔、ファイナルファンタジー3というコンピュータゲームを遊んでいた。有名なので説明不要だろうが、ざっくりいうと「闇が暴走して、世界が無に帰そうとしている時に光の戦士に選ばれた少年が世界を救う」というプロットである。こうしたRPGはさまざまな神話や伝説、小説などを下敷き(元ネタ)にしているので、なかなか馬鹿にできない。そのゲームのラスト近くで、こんな話が出てくる。「かつて光が暴走したときに、闇の戦士が世界を救った」という。どちらにせよ、ゾロアスター教的な二元論を下敷き(敵のモンスターに「アーリマン」も出てくる。アーリマンとはゾロアスター教における悪の権化である。)にして、光と闇のバランスをとることが、世界を安定させるという観点で物語が組まれている。


18世紀から19世紀に「産業革命」により光が暴走し、19世紀末から20世紀半ばにはそのカウンターとして「二つの大戦」という闇が暴走した。このとき「アーリマンの帝国」として日本とドイツは断罪され(イタリアは?)、冷戦という「明るすぎず暗すぎない」という時代が過ぎた。20世紀末には「新たな悪(アーリマン)の帝国」ソヴィエト連邦が崩壊し、正義(光)の勝利となり、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり?」を書いた。しかし、私の見るところまた、光が暴走している。

具体的には150年前の「産業革命」にあたるものは明らかに「情報革命」であろう。1970年代から80年代はテクノロジーの一分野に過ぎなかったが、1990年代に入ってから急速に発達し、2017年現在は大量データと人工知能(BiG Data、IoT、AI)を先頭として異常発達を続けており、「将来なくなる職業」などがよく特集され、ビル・ゲイツでさえ「AIが人の仕事を奪うならAIに課税すべきだ」と言い出す状況である。なんというかテクノロジは「今度こそ生命の神秘である精神も征服できる」と意気込んでいるようだ。

さらに「共産主義」に勝利した「資本主義」は「新自由主義=グローバリズム」へ発達し、情報革命とも連動しながら、瞬く間にカネを中心に世界を席巻してしまった。もやは情報とモノとカネはインターネットの中で自由に行き来し、佐伯啓思のいうシンボリックアナリストがそれを使って巨大な格差を生み出すにいたっている。

これは光の暴走である。商売とはいえ「テクノロジがすべてを解決できる」「AIが人を駆逐する」という言説を堂々とする企業経営者やマスメディアは多い。端的にいって高い確率で思い上がりである。まともな知性の持ち主ならそれはわかっているだろうが、「マス」あるいは「畜群」たる多くの人々は真に受けているだろう。その状況それ自体が「光の暴走」である。光が暴走するとなにが起こるか、「陽極まれば陰に転じ」るのである。闇が深くなるのである。闇が深くなれば、またぞろアーリマンが活動するのである。

エドワード・ルトワックという戦略論の大家は「パラドキシカル・ロジック」という言葉を使う。「逆説的論理」と言うわけだ。それは世の中は相互作用の世界であるがために、「強くあろうと強気に軍備を拡張すると、周囲の警戒を招いて、結果として相対的に弱くなる」というものだ。ルトワックによれば大国というのは小国に勝つことはできないそうである。それはパラドキシカル・ロジックが働くからだと言うわけだ。逆に小国は大国に勝つことができる。日露戦争がその典型であるとのこと。

話がそれたが世の中は私の見るところ、相互作用で動いており、善悪理非とは無関係に「バランス」の中で動いている。今は光が暴走している。必ずそれは闇の増幅をもたらすだろう。いや、頻発するテロ、解決しない失業問題、実感なき景気回復などすでに増幅を始めているように思える。スターウォーズのような映画ではないから、止めようがない。したがって覚悟するしか仕方がないのだが、芸術家たちが象徴主義のようなものを表現し始めたら、それはアーリマンの警告かもしれない。文学や絵画はもはや往年の力がないが、それはどこかですでに始まっているだろう。